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矢島操展「ツバメのおはなし」

特別記念冊子

ほかのつばめのおはなし

いしいしんじ 

 ほかのつばめは、怒っていました。激怒していました。

 怒髪天を突き、憤懣やる方なし、怒り心頭に発しまくり、って感じでした。

 どうして僕だけ、ほかならぬ、この僕だけが、お皿のなかに入れてもらえないんだ!

 たしかに、器職人さんちでの集合時間に、ほんのちょっとだけ遅れました。20分、10分、いや、5分くらい。でもそれは、べつに寝坊したり、さぼったり、だらけていたせいではないのです。

 電線に、どこかのばかなこどもが凧をひっかけ、バチバチ火花が散っている。すずめやひばりの子らが、こわがって、むこうの森へ飛んでいくことができない。だから、ほかのつばめがつきそって、送り届けてやったのです。寝坊どころか、人助け。ボランティア。笠地蔵。そうして駆けつけたところ、職人さんはもうすでに、つばめたちを中へ迎えいれた、展覧会用のお皿を、窯に入れ終わったところでした。たった2、3分の差で、ほかのつばめは、晴れの舞台からあぶれちまったってわけです。

 僕がいちばん、速いのに!

 いちばんつばめらしいつばめっていえば、この僕なのに!

 黒い頭から湯気をたなびかせ、ほかのつばめは、めちゃくちゃな飛びかたで巣にむかいます。お皿にあぶれたことに加え、「ほかの」なんて、脱力しそうな呼び名、とうていがまんができません。ただこれは、書き手の僕がそう決めたのだから、当面、つきあってもらうよりほか、しょうがありません。だから、ほかのつばめのことはこれから「ほかの」と呼ぶことにします。

 

 古い町家の屋根庇に、まるで団地みたいにぎっしり、つばめたちが巣をかけている。ほかのは、よりすぐりの麦わらで編んだ、自分の巣に飛びこみました。枕、エンピツ、歯ブラシにハンカチ。かたっぱしから風呂敷になげこんで背中にせおい、赤い胸もとでくくります。

「おい、どこかいくの」

 戸口のわきの大ぶりな水瓶から、オタマジャクシが声をかけてきました。

「うん」

 ほかのは表札をひっくり返し、巣のなかに、旅立ちのおまじないにぷっぷっと唾をひっかけます。

「もう、こんなカビくっさい家にはおさらばさ。皿になんてとじこめられてたまるか。僕は、これまでどんなつばめも想像すらしたことのない、偉業を達成するんだ」

「ふうん、どんな」

 と、また別のオタマジャクシ。

「ええと」

 ほかのは、くちばしを鳴らして考えます。けど、なかなか考えが浮かびません。それはまあ、当たり前のことです。なんせ、これまでどんなつばめも想像したことがないことを想像するのは、つばめにとって簡単じゃありませんから。

「なにしろ、ものすごいことだよ」

 ほかのはいって、ひらりと舞いあがりました。たしかにほかのは、つばめたちのなかでも頭ひとつ抜けて、昔から飛ぶのはじょうずです。

「いってらっしゃい、ほかの」

 オタマジャクシたちがざわざわと水面に集まります。

「あらしに、きをつけて」

「へんな虫、たべないでね」

「いぎょうをたっせいしたら、おみやげに、すてきなコケもってかえってね」

 いいながらオタマジャクシたちは横向けに整列し、ふわふわたゆたいながら、音符になってうたいはじめました。「赤い鳥」がうたった「翼をください」です。

 

 このおーぞらに つばさをひろーげ

 とんでーいきたーいーよー

 オタマジャクシがうたうので説得力がちがいます。そういうこととは別に、ほかのはなんだか、胸のなかがぞわぞわしてたまらなくなりました。

「いくよっ」

 ほかのはそういって、翼をぴんと反らせて飛びだしました。一気に町を抜け、桜並木の川に出ます。みどりの匂いがぷんと鼻をつく。

 ぬるい春の風を受け、川に沿って、南のほうへくだっていきながら、ほかのはふと思います。オタマジャクシたちのうた、さいごまできいて、それで拍手してあげたら、あいつらけっこう喜んだかもな。

 川沿いに飛びながら、ほかのは全身をひらきます。

 ほかのに限らず、また、つばめに限らず、鳥という生きものは、羽根をひろげ飛んでいるように見え、じつは、からだのすべてを、自分をとりまく空間と時間にむけてひらいています。

 地上にいるぼくたちから見あげれば、頭上の一点を滑空していくようですが、鳥本人とすれば、世界が自分へたえまなく注ぎこみ、同時に、自分が世界へとめどなく注ぎだす、ずっとその、入れ替わりのプロセスを生きている、というのが実感です。同じ例をあげれば、水と魚の関係がまさにそうでしょう。

 ほかののからだに、次々と、世界のにおいが入る。ぬるまった川の表面。おどっているみどりの藻。河原のどこかで誰かたき火している。

 春の花がひらき、わらびやこごみに風が吹きよせ、河原にひろがる草原のあらゆる香りが、ほかのの鼻孔へ、誰もみたことのない滝のようにどっと流れこむ。犬のよだれ、鴨の羽根、周囲を飛びまわる花粉。

 この世は、とりどりのにおいを練り込めたパンそのもの。ほかのはかじりながら、そのまっただなかを掘り進んでいきます。と同時に、自分もパンに溶けてゆく。

 ほかののからだに、次々と、世界の光が入る。飴色の、朝の陽ざし。陽光の照り返す川の水は、一瞬だって同じ色をしていません。当たり前です、透明な水は、たえず変化するまわりの景色を、すべて呑みこんで流れゆくのですから。

 風にそよぐ草のみどりもほんとうは同じこと。目に見えるあらゆるものは、まわりの光と干渉しあいながらそこにあります。土には空が、岩にはかじかがえるが、アオサギの羽毛には舞いたつしぶきが、樹木の葉には他のすべての葉が、映り、ざわめき、ぶつかり、溶け合っている。飛翔するほかのの目には、世界がだいたい、そんな風に映っています。

 ほかののからだに、次々と、世界の音が入る。春のせせらぎ。自転車の車輪。風をうけ、ヨシの原全体が、居眠りする緑の巨人の、深いいびきみたいに揺れている。

 風切り音は、羽根がたてているの。それとも、風の響きなの。

 河原で誰か、ホルンの練習をしている。楽器のなかを、吹いているひとの息が流れ、さまざまなかたちを経て外界に流れだす。音とはつまり、空気のふるえです。鳥たちは高い空の上で、眼下の丸い天体が、ふくらみ、縮み、をくりかえしながら、どんな風に息づいているか、たえず聞き耳をたてている。それはまた、小さく赤い、みずからの胸のふくらみ、縮みに、いつも必ず同期しています。ほかのは音をたて、飛びます。同時に、音となって飛んでいく。

 におい、光、音。それらが混じりあったかたまりを胸いっぱいにはらみ、朝からなにも食べないのに、ほかのはあたたかな満腹感をおぼえました。からだがふくれ、縮み、その瞬間、空の上で、プイ、と糞を出します。

 たったいままでほかのの内にあった外。におい、光、音を発しながら、そのちいさなかたまりは落ちていく。

 と、次の瞬間、

「おい」

 真下から声がかかります。

「おい、待てよ」

 翼をたててブレーキをかけます。ほかのは身をひるがえし、視線を下に向けると、川の土手に一頭、馬が立ち、こちらをみあげています。

「ああ、すみません」

 とほかの。

「うんち、ひっかけちゃいましたか」

「そんなのは、どうでもいいことだ」

 ずいぶんなご老体らしいその牡馬は、ぶるっと鼻を鳴らします。

「おまえは、このまま川をくだって行くのかね」

 旋回しつつほのかは少し考え、

「ええっと、いまんとこ、そのつもりですけど」

 それをきいた牡馬は、右前の蹄でかっかっと土を掘り、

「おまえもいずれ、どこかに新しい巣をかけるだろうな」

「ええ、たぶん」

「そのとき、材料として、このわたしのしっぽの毛とたてがみを、まるまる、さしあげようとおもうのだが、いかがかね」

 ほかのは一瞬、なにをいわれているのかわからず、そうして頭をぶったたかれたように驚きました。動物の毛、とくに馬の体毛は、巣をつくるのに理想、最高級、まさしく夢の素材です。ひとつの巣のなかに馬の毛一本はいっているだけで保温性、通気性、心地よさ、強度、すべてがぐんとあがるといわれています。ほかのもいっぱしの、若いオスのつばめなのですから、いつか馬の毛で巣を編んでみたい、そんな望みを覚えないわけではありませんでした。それが、なんと、一頭分というのですから!

「え、あの、もちろん、でも」

 ほかのは、しどろもどろを絵に描いたような調子で、

「ほんとうにもらえるんなら、ぜひ、ください」

 すると老馬は、吐息をつきながらうなずき、

「そのかわり、といってはなんだが、ひとつ、頼まれてもらいたいことがある」

 首をあげさげしながら、いいました。

「わたしは、死に場所を、さがしておる。このくたくたした世の中で、もう十二分に生きた。そこで、鳥であるおまえに、道案内を頼みたいのだ。かんたんなことだ、この河原をずうっと南へ、おりていってくれればよい。ずいぶん昔、きかされたことがある。陽の当たる川べりのどこかに、馬のためのあの世に通じる、真っ黒い穴がひらかれてあると。わたしとともに行きながら、おまえはその広い鳥の目で、黒々とひらいた穴を見つけてはくれないだろうか」

 突然のことで、面くらいはしましたが、馬の毛一頭分といわれた、さっきの驚きにはおよびません。くるっと空中に丸を描き、ほかのは、その羽根よりも軽やかな口調で、

「いいっすよ、案内しましょう」

「では、よろしく頼む。行こうか」

 老馬は、ゆったり、ゆったり、下流のほうへ歩きはじめました。

「わたしは、ほとんど目がきかない。溺れるのはみっともないから、穴のことに加え、川へ落ちないようにだけ気を配ってくれたらありがたい。わたしのことは、べつの、と呼んでくれればよい。若いころから、群れることになじめず、ずうっと一頭きりで過ごすうち、べつの馬、呼ばわりされるようになった。いまではその名のほうが、べたべたしたつきあいより、よほど馴染んでいる」

 一見ゆったりした歩調ですが、べつのの足どりはじつに力強く、空からみおろしていると、まるで小高い丘が移動していくようです。対岸へうつったり、いったん先に進んでまた戻ったり、気まぐれに飛びかいながら、ほかのは何気なさを装いながら、黒く輝く馬体から目をはなすことができませんでした。なんだか、自分こそ、べつのに案内されつつ、春の川べりを進んでいくようです。

 べつのは時折足をとめ、長い首を鉄道橋のように地面へのべ、河原ですくすくのびつつある春の青草を、頬をたっぷり膨らせて食みます。ずいぶんうまそうに食べるなあ、と内心、ほかのは思います。もう十二分に生きた、とかいっといて。

 もちろんほかのも食事をとります。草間を飛びかう銀の虫やら、あたたかな土の上でのたくる長虫やら。虫たちの背にさすやわらかな春の陽ざしは、二倍かあるいはそれ以上、甘味をますスパイスとして働くようです。ひらり、ひらり、器用に飛びかいながらほかのは、くちばしの間に、空間を飛びまわる獲物をすくいとります。

 味や栄養分だけでありません。食事の際の、この閃くような動き、所作をくりかえすことでつばめたちは、すずめや鴨などでない、自分たちはほかならぬつばめなのだと、からだの奥に語りかけるように体感し、いまこうして生きている、その喜びにうちふるえるのです。つばめであることに、こんなに誇りをもっている動物はこの世につばめしかいません。これは当たり前のようですが、じつは大切なことなのです。

 ほかのとべつのは、一定の距離をたもちながら、湾曲する川の流れに沿い、南へ、南へとくだっていきました。そうするうち、西の山の端に赤銅色の夕陽が落ち、はじめの夜がおりてきました。

 べつのはブナの幹に寄り添って立ち、うあーあ、と大きなあくびをもらすと、ぶるっと鼻を鳴らします。よく知られていることですが馬が寝るのは立ったままです。ほかのはブナの梢に舞いおり、しばらくその揺れを楽しんでいます。

「なあ、つばめよ」

 べつのの声が、真下からあがってきました。

「おまえは、この川をくだっていった先の、どこへいくのだ」

「どこって、とりたてて、めざすところはないんだけど」

 急に視界をとざしはじめた宵闇に、ほかのは声をおとします。

「これまで、どんなつばめにもできなかったことなんかが、できれば、したいかなあ、って」

 偉業なることばが、この馬相手には、なぜか出てきません。

「ほう」

 べつのの声が深くひびきます。

「つばめをこえようってわけか。せいぜいがんばることだ。幸運をいのろう」

 え、と、ほかのは息をのみ、問いかけようとしました。闇の底からひっそりと、川面のあぶくのような老馬の寝息が浮かんできました。

 夜空を雲が流れます。空いっぱいにおぼろげに、銀色の星々が輝いています。

 二、三日、一週間と、べつのとほかのの、川下への旅はつづきます。歩きながらふたりはつかず離れずいろんな話を交わしました。

 十二分に生きたといい、群れになじめず一頭っきりで過ごしてきたといいながら、べつのはけして愛想なしでも、がんこじいさんでもなく、ゆったりとした歩調で川べりを歩きながら、ひづめのリズミカルな音とともに、絶妙なタイミングであいづちをうつのでした。話し好き、というより、聞きじょうず。黒く大きなその耳なら、どんな悲惨なうちあけ話であっても、たっぷりと上手にすくいとってくれそうです。

 好きな食べもの、カラスの最悪さ、じつは生きているお地蔵さんのことなど、さまざまな話題を披露したあと、ほかのは、その姿がぼんやりと目に残っている、きょうだいの話をしました。いちばん上の兄ほどうまく、つばめらしく飛べるつばめを、ほかのはこれまで一羽だって知りません。

 ほかのには妹か、弟がいました。巣の中にぎゅうぎゅう詰めで、後ろや真横を見わたすことさえできませんけれども、両親や兄は笑いながら声をかけていますし、自分より小さな、あたたかみのあるからだが、お尻のあたりにきゅうきゅうくっついてくるのを朝夕感じていました。

 ある朝めざめると、巣のなかが妙に空いています。父親のくちばしから毛虫をうけとり、もぐもぐ飲みくだしながら、べつのはあとずさってお尻の先でいつもの感触をさがしました。

 お尻はかさかさ、乾いた巣の壁にこすれて鳴りました。それっきりでした。

「まあ、その後、まわりの巣をみて、妹か弟なんて、もつもんじゃないってよくわかったけどね」

 空中でくるっとひるがえり、べつのはいいました。

「ギャン泣きしてうるさいし、エサは待たなきゃならないし、飛べるようになってからも、まとわれつかれてうっとおしいし」

 中流域のこのあたりでは、河原は護岸整備され、石畳のランニングコースまで作られています。ちょうど間をおいたひづめの音が、春の川面に、ぽっかぽっく、ぽっくぽっか、かたく、やわらかく響きます。学生の漕ぐふたり乗りのダブルスカルが川上から一本の矢のように滑水し、通過してゆきました。

「だからか」

 草地で立ちどまり、べつのは前をむいたまま呟きました。

「え、なにが」

 五メートルほどの高みで輪を描き、ほかのは訊ねました。

「きのうの夕方だよ。カルガモの雛が流されたろう」

 べつのはいいました。

「川底が段々になってて、流れがあそこだけ滝みたいに急だった。カモの両親はきょときょと見まわすばかりだった。カルガモはみるまに一気に半ハロンは流され、激流のまんなかで泣き叫んでいた」

「もういいよ」

 べつのは顔をしかめました。

「ちがう話をしようよ」

「おまえさんはひとっ飛びでカルガモにおいついた」

 べつのはつづけます。

「そんな小ぶりなくちばしで、よく川岸まで運びあげられたもんだ。突然のことで、わたしもただ河原に、ぼんやり立ってるほかなかったが、なるほど、そういうわけか。おまえさんがしじゅう、河原の小さなヒナや小鳥たちに目をくばってるのは」

 ほかのはフンと鼻を鳴らし、真上へ一気に、三十メートル近く飛びあがりました。その日は夕陽が沈んでもおりてきませんでした。

 翌朝、もたれていた桜の幹から身を離し、べつのがゆったりと歩みだすと、どこからか、ツバメのほかのが舞いおりてきて、

「ゆうべはわりと冷え込んだけど」

 といいました。

 馬のべつのは、

「平気だよ。北の土地のうまれなんでな」

 とこたえ、ほかのを従えて歩きつづけました。

 そんな風にもう、何日が過ぎたでしょう。まっさかりだった春の空から、いつのまにか灼熱の陽ざしが降りそそぎ、そのうち、寒風が吹きすさぶ季節になっても、馬のべつのは河原を歩きつづけ、ツバメのほかのはその上を飛びつづけていました。

 ツバメはほんとうなら、もうとうに南の空へ飛び去っているはずです。けれども、ほかのは「ほか」であることに、けっこうな自負と誇りをもっていましたから、翼の先が多少ひんやりしてこようが、くるっ、くるっ、と勢いよく宙に輪をかき、平気な顔をして飛びつづけました。それに、べつのといっしょに河原を進んでいるあいだは、時間がいやにゆっくり、まるでカタツムリの歩みのように進んでいく気もしたのです。

 だんだんと、うす暗くなってきます。

 鈍色の水面を波打たせながら、川幅がじょじょにひろがってゆき、それとともに河原もだだっ広く、雑草に覆われた河川敷の風景にかわりました。外気のせいでなく、ほかのは、内側からブルッとふるえました。遊歩道や飛び石はどこにもありません。川べりには通行人どころか、建物の姿すらなく、えんえん、灰色の雑木、背の高い草地にふちどられた広野がつづいているばかりです。

 船、車はもちろん、犬も、虫も、草のそよぎさえも、いっさい動くものが見当たらない。ただ、草を踏みしめてべつのが進み、ほかのは雲におおわれた空を黙々と滑る。

 上空から見おろすほかのの目には、だだっ広い河川敷をあちらこちらへ移動する、ぼんやりとした光のかたまりが映っています。消えた、と思ったらまた、少し離れた場所でほのかに灯り、呼吸するように明滅しては、少しずつ消えてゆく。そうしてまた、別の場所でゆっくりと灯ります。

「見たことのない光が、ついたり、消えたりしてる」

 と、ほかのが空からささやきます。

「着いたようだな、そいつが穴だ。あの世の光を外にこぼしてる」

 べつのがこたえました。

「おまえさんは、空から教えておくれ。わたしからみて、光の穴が順々とどっちへひらいていくか。位置と速ささえわかれば、自然に、わたしのからだが反応する。タイミングよく、穴のまんなかに、飛びこむことができる」

「どうなるの」

 少し小声でほかのがいうと、

「おまえさんとは、ここでおさらばさ」

 べつのは少し首をかしげ、視線を上空へ送りました。ゆったりと瞬きしながら、

「ありがとうよ。おまえさんは、ここまでしか来られない。まだまだ達者に生きて、すてきな場所に巣をかけ、ひなを立派に育てるんだ。いいか、それがいちばん、立派なことだよ。おまえさんには、まちがいなくそれができる」

「べつのは」

 ほかのはくるっと輪を描き、

「ほんとに、死んじゃいたいの」

「わたしのような老いぼれは、さっさと穴に飛びこんで、消えちまうのが世のためなのさ」

 深々とため息をつき、べつのはいいました。

「さ、ほかの。たのむぞ。おまえさんは、おまえさんにしかできないことをしておくれ。心配するな、うまくなかへ飛びこめたら、しっぽの毛とたてがみは、光といっしょに穴の外へこぼすからな」

 ほかのは、かすかにうなずき、もう一度輪を描くと空の高みにのぼりました。明滅する光のリズムがよくわかります。

「左3メートル、右斜め後ろ15メートル、左斜め前20メートル」

 ほかのは感情を殺し、光の動きに集中して叫びました。

「真後ろ10メートル、右斜め前20メートル、右8メートル」

 声のたび、べつのの背中がびくっ、びくっ、とふるえます。タイミングをはかっているのでしょうか。

 ほかのはカラカラになった喉をしぼり、全身をふりしぼって声をあげます。

「右斜め前18メートル、真左12メートル、真後ろ5メートル」

 そうして、目がくらみかけた瞬間、

「真正面、1メートル!」

 べつのが地面を蹴り、光のなかに身を躍らせました。しぶきのように光の粒がざんざんこぼれ、周囲ににちらばり、うす暗い草間をまぶしいくらいに輝かせました。

 暗い空に弧を描き、ほかのはまだ飛んでいます。べつのをのみこんだあとも、光の穴はまだ明滅しながら広野を移動しています。ただ、だんだんと輝きはおさまり、やがてもう、どこか別の場所へと吸いこまれてしまいそうです。

「おかしい、べつの。いってることと、やってることがちがう」

 つばめのほかのは、くちばしの奥でつぶやきました。

「べつのはなにか、隠してる。いぎょうは、まだ達成できないけど、頭だって、そんなによかないけれど、でも、ぼくにはわかる。ずうっと、ふたりいっしょに、ここまでやってきたんだから」

 べつののあの、最後の吐息が目に浮かぶ。まばたきする瞳の哀しげな輝きが、ほかのの目によみがえります。

 ほかのは、すうっとまた、空の高みに浮上しました。そうして、いっさいの迷いを振り捨て、つばめの全速力で急降下し、もうほとんど消えかかりつつある、ほのかな光の中央へ、目をみひらいたまま飛びこんでいきました。

 光のただなかへ飛びこんだはずなのに、うす暗い、闇のトンネルがつづきました。この先に馬のべつのが、なにか事情をかかえたままひとり、とぼとぼ歩いていっている、そのことだけで、小さな頭のなかがいっぱいで、ほかのには、まわりを怖がる余裕なんてありませんでした。

 はるか先に、オレンジ色の、あふれる光がみえてきます。ほかのは翼に力をこめ、スピードをあげました。オレンジ色がどんどん近づき、一気に目の前にひろがります。

 天井と壁がひろがった、まるい「室」のような場所でした。まわりは濡れたように黒々とかがやき、そこにオレンジ色の光がちろちろ反射しています。室のいちばん奥に、障子みたいな木枠の格子が張られ、あたりに満ちるオレンジ色の光は、そのむこうから万遍なく放射してくるようでした。

 格子の手前に大きな影が立ち、誰かに熱っぽく話しかけています。まちがいなく、馬のべつののようです。ほかのは耳をそばだて、天井近くを飛び、べつのの真上に近づきました。トンネル内奥のはずなのに、全体に熱がこもって息がつまりそうです。

「だから、わたしは、死にそうなんだ」

 ほかのは、強い口調でいいました。すると、格子のそばの誰かが、

「嘘だね。どうみたって、ぴんぴんしてるよ」

 ほかのは目をこらし、あっ、と息をのみました。背広を着た事務員のような人物が、半分すきとおった姿で、ノート片手にゆうらりと立っています。視線は半分ほかのへ、半分格子のなかへ、ちらちらと動いています。顔は馬です。

「いいかね、順番は守ってもらなきゃこまる。ちゃんと死にかけた馬から先に、門を通ってあっちへ行き、熾火のなかへ入る、こいつはもう、宇宙ができたときからそうと決まった掟なんだ。あんた、からだじゅう泥を塗り、お風呂にもはいらず、歩きづめに歩いて、自分をおいぼれに見せかけようって腹づもりらしいね。だが、この帳面見りゃ、ぜんぶお見通しだ。あんたはまだ、ぜーんぜん若い。そもそも、順番自体、まだまだ先だ。ほら、ごらん。予定表に名前さえのっちゃいない」

 事務員が、開いたノートをひらひら揺らせる。表紙には「えんま帳 馬バージョン」と書かれ、銀色のひづめの判がくっきり捺されてあります。

 目が慣れてくるうち、このほの暗い場所でなにが進行しているのか、天井を飛ぶほかのにもだんだんとわかってきました。

 室の床じゅう、半透明のぶよぶよした塊が列をなしてうごめき、少しずつ、室の内奥に張られた格子のほうへ進んでいきます。格子にたどりついたかたまりは、次々と、なんの抵抗もなく、ふわっと格子の向こうへ通りぬけていき、そうして、遍くかがやくオレンジ色の光のなかへ溶けてゆきます。

 どうやら、あれらは全部、瀕死の馬たちのたましいらしい。

「わたしは、死んでいいんだ」

 べつのが叫んでいます。

「なにが順番だ。うちの仔はうまれてまだ半年も経たないんだ。順番というなら、このわたしが先にゆくのが筋だろう。さあ、まだ間に合うはずだ。離れていようが、わたしにはわかる。うちの『そこの』と、このわたしを、さっさと入れ替えてくれ」

「月に一度はあんたみたいのが来る」

 事務員の馬は頭を振り、

「気持ちはわかるが、どうしようもない。いったんこの門を通っちまったら、ぜったい自分からは、門のこちらへは戻れない。あとは、あの熾火で焼かれて、真新しくうまれかわるほかないんだよ。あんたに、せめてできるのは、いっそうこころをこめて、その仔馬を見送ってやることだけさ。ほら」

 格子のすぐむこうに、ひょこひょこ、ぎごちなく歩み寄ってくるかたまりがひとつありました。べつのが頭をさげ、格子ごしに顔を近づけると、小さなそのかたまりは、いっそうぎごちなくその場で揺れ、後ろからの光を受けてふつふつ輝いています。

「ああ、そこの」

 大きく見ひらいた眼からいっそう大きな、ぶどうみたいな涙をはらはら垂らし、

「さあ、おきてくれ。その目をあけておくれ。ほし草のふとんの上に、しっかりと立ってごらん。おかあさんも、じいちゃんもばあちゃんも、妹たちも、お前の目ざめることだけを、ずうっと待っている。お前のかわりに、このわたしが熾火のなかへゆく。なにも心配はいらない。こうして最後にお前に会えたんだから、わたしは、喜んで先に行かせてもらう」

「だからさ、無理だって」

 事務員が声をひそめ、

「生きてるし、でかすぎるし、あんたには、ぜったいにこの門はくぐれないよ」

 そのときです。黒い光がきらめき、べつのの耳をかすめました。ひらりと格子のむこうへ飛びこみ、地面でひょこひょこ揺れている小さなかたまりをすくいあげるや、目にもとまらぬ速さでまた格子の外へ飛びだしました。

「あっ、なんてことしやがる」

 慌てて事務員が飛びつきますが、あとの祭りです。黒い光は天井ぎりぎりまの高さをたもち、半透明のかたまりとともに、まっしぐらにトンネルを逆戻りし、はるか彼方へ遠ざかってゆきます。

 なにもいえないまま、べつのは遠ざかる光を見つめ、格子の手前に立ちつくしていました。絶望にうちひしがれてみえた瞳は、こうこうと輝きを放ちはじめ、首も肩も、お尻の肉も、老馬どころか働き盛りの若駒そのもの。

 光を見送りながらべつのは、胸のなかで念じました。

 飛べ、ほかの。つばめをこえてくれ。

 一心不乱に、ほかのは飛んでいきます。口にくわえた仔馬「そこの」のたましいが落っこちてしまわないよう、くちばしをうんと噛みしめて。

 北の土地のうまれ、とべつのはいっていました。そのことばと、ともに歩くあいだにかいだ匂い、それに、半透明な「そこの」のなかに映りこむ風景をみれば、飛んでいくべき方向は、自然とわかりました。

 トンネルを抜け、光の粒とともに、広大な河川敷に飛びだします。

 一瞬の迷いもなく、身を翻し、北の空をめざし、川をさかのぼって飛ぶ。見る間に、べつのと会った場所を過ぎ、自分のもといた土地も、通り越してしまいます。べつのとの旅の時間は、気のせいでなく、実際、とてつもなくゆっくりと過ぎていたのかもしれません。

 翼に力をこめると、ひゅんひゅん、ひゅんひゅん、ほかのの耳元でいっそう、噛みつくような、脅しかけるような風切り音が響きます。ほかのは怯みません。川辺を離れ、一気に高度を上げて滑空していきます。空を速く飛ぶことなら、もとより、ほかの誰よりうまくやれるのです。

 山をひとつこえます。緑の木々が少なくなりました。

 向かい風が冷え冷えとした壁のようにほかのの前にたちはだかります。その壁を、一枚、また一枚、と突きやぶるごとに、つばめのほかのは、空気が薄くなってゆくように感じました。青空の上に、薄くちりばめられた銀の星がまたたいています。ほかのはあごをきゅっと引き絞りました。眼下の山には緑の葉でなく、白い雪が敷き詰められています。

 それでもほかのは、怖くありませんでした。かえって頭が冴え冴えと澄み、気分がよいくらいのものでした。白い雪山の上にちらちらといろんなものが見えました。群れるオタマジャクシ。移動してゆく小高い丘。水をぶるぶる跳ねとばすカルガモの雛。

 北をめざしているのかな。雲を掠めて空を滑りながら、ほかのはひとりごちます。からだがなんだか重いけど、なにも食べてないんだからそんなわけない。きっとぼくの身はいま、自分史上最高に軽いはず。だいたいこの、なんだったか忘れそうな半透明のかたまりだって、この世の重さなんてないはずだし。

 だんだんと、頭がぼんやりとしてきます。銀色に輝く山をまたひとつこえます。湾曲して流れる川の水面は銀色に凍りついています。ほかのはもう、意志や勇気など忘れました。目の前にひろがる風景だけが、一瞬ごとに、ただ更新されていきました。羽ばたくでも、風に乗るでもない。ほかのはただ、飛んでいます。雪の吹きすさぶ海峡が眼下を流れてゆきます。

 薄れゆく意識のなかで、ほかのは声をきいていました。

 つばめをこえろ。

 つばめをこえろ。

 自分の声か、別の誰かの声か、それももう判然としません。

 ただ、その響きに、ほかのの心臓はかすかにふるえ、血液はわずかずつ、前へ、前へと流れました。くちばしにこめる力だけは、一瞬もゆるぎません。まるで生まれたときから、そのままのかたちで、固まってしまっているみたいです。

 つばめをこえろ。

 つばめをこえろ。

 ほかのはもう、見えなくなりました。そのかたち、輪郭や、色、におい、すべてがわからなくなりました。だから、響いていたのはもう、声ではなかったかもしれない。心臓が、血流が、呼吸が、そう叫んでいたのかもしれません。

 耳はきこえませんでした。けれども最後の呼びかけは、とりわけ大きく、この星ぜんたいを包むように響きわたりました。

 つばめを、こえろ!

 雪に閉ざされた村の牧場。薪ストーブの煙があがっている。母屋から雪道を一本はさんで、かまぼこ形の厩舎が建っています。

 天井そばの、くすんだガラスの二重窓を通り抜けると、敷き詰められたわらの上に、何頭もの馬が輪をなして集まっているのが見えます。まんなかに、仔馬が一頭、右側を下に、横向けに倒れています。

 馬たちは嘆き、鼻を鳴らし、激しくいななきます。あたりを埋めつくす雪のせいでその声は遠くへいけません。セントラルヒーティングの蒸気の音が間欠泉のように時折ひびきます。

 不意に馬たちは、耳をそばだてます。いま、なにかきこえた。そら耳だろうか。誰かが駆けているような音がしたが。

 ちがう、そら耳じゃない。たしかに、蹄音がきこえます。春のあたたまった黒土の上を、リズミカルに、調子よく駆けてゆく、一頭の馬。まだ大人じゃない。澄みきった目の仔馬です。いちにっさん、いちにっさん、いちにっさん、駆け足のリズムで、土を蹴り、春の喜びにうちふるえながら、軽やかに跳ねています。いちにっさん、いちにっさん、いちにっさん。

 馬たちは目を見はりました。蹄の音は、わらの上に横倒しになった仔馬の胸のあたりから発していたからです。

 さらに馬たちは、あっ、と、いっそう目を大きくあけます。倒れた仔馬が彗星みたいなその瞳をひらき、まわりをみまわすと、

「ぼく、ずいぶんねたねえ」

 といったのです。

 年老いた馬やおとなの馬は、うんうんとうなずいています。はらはらと涙を流している馬もいます。はしゃいで、ぴょんぴょん跳びまわろうとする幼い仔馬たちを、痩せたおばあさん馬がふりむき、しっ、しっ、とたしなめます。

「おなかが、すいちゃったな」

 起きあがろうとする仔馬に、やわらかな声の女馬が、いきなり食べたりしちゃ、おなかに毒よ、そこの、といいます。力の強そうなおじいさん馬が、ぬるま湯をたたえたバケツを口にくわえてもってくると、わらのすきまに置きます。

 こく、こく、喉を鳴らしてお湯をのんだあと、首を高々とあげ、仔馬のそこのはううんと伸びをしました。まわりの皆、また目をみはります。なんだか、大きくなったみたい。倒れる前より、毛並みの色つやも一段といい。

 おや、とおばあさん馬が首をかしげ、頭をさげて近づきます。ごらん、この子の胸になんだか妙なかたちのしみが。

 ぴんと張りのある首もとの毛並みの上に、たしかに漆黒の、前にはなかった模様が浮かんでいます。

 そこのは、こともなげに、

「ほかのだよ」

 といいました。

 え、みんな目をむけます。

「ええ、つまり、なんていうんだろう」

 仔馬のそこのは頭をめぐらし、

「しみとか、よごれとか、そういうのとは、まるでちがう。ほかの、ってのはつまり、特別、ってこと。とっても立派なんだ。勲章なんだよ。いつかぼくは、この、ほかのにふさわしい、立派な馬にならなくちゃなあ」

 おばあさん馬、おじいさん馬、女馬に仔馬たちが、そこのの前に集まり、首もとにできた「勲章」を見つめます。よくよく見るとそれは、鋭く翼をひらいた真っ黒な鳥のかたちに似ています。

 瞬間、黒い模様のなかから、砂のような金色の光がぱらぱらと噴きだしました。光は馬たちの瞳にもうつり、厩舎のなかばかりか、この世ぜんたいを、遍く輝かせてみえました。

 外で蹄音が響きます。もうすぐに、春がやってきます。ぬるまった雪解け水のなかで真っ黒いオタマジャクシが整列します。そうして、音符になって踊りながら、どこまでもまるく広がる大皿のような空と、その上を飛びかう鳥たち、ささやかな生きものたちの歌を、この世にうまれたての声でうたうのです。

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